コラム プロみたいなチームやったね/香川伸行12

 2018年夏、全国高校野球選手権大会が100回大会を迎えます。その記念大会へ向け、日刊スポーツが総力を挙げた連載を毎日掲載します。シリーズ1は「追憶」と題し、...

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コラム プロみたいなチームやったね/香川伸行12

 2018年夏、全国高校野球選手権大会が100回大会を迎えます。
その記念大会へ向け、日刊スポーツが総力を挙げた連載を毎日掲載します。
シリーズ1は「追憶」と題し、甲子園を沸かせたスター選手から、長嶋茂雄氏のように甲子園には出場できなかった選手までスポットを当て、高校野球の長い歴史を振り返っていく大河連載です。
 浪商の香川は甲子園の舞台で春夏合わせて5本塁打をかっ飛ばした。
1979年夏の甲子園で史上初の3試合連続本塁打。
その後、3戦連発は清原和博ら6人がマークしたが、今も抜かれていない。
急逝する前年の13年12月本紙の取材で当時を振り返っている。
 香川 浪商いうチームはバラバラでした。
でもいざ試合になると一丸になった。
プロみたいなチームやったね。
ほんま甲子園ってとこは不思議なとこですわ。
自分にない力が出るし、持ってる力が出ない。
でも今思えば負けて良かった。
ずっと順風満帆にきていたから。
高校野球がなかったら自分はなかったと思うわ。
 また連日のように体格について質問を浴びた球児は異例で「ぼくは投手だけでなく『体重』とも戦ってきたんやで」と本音を明かした。
プロ入り後は球団事務所に「自分の子供がいつも学校で『デブ』といじめられてるが、香川さんが頑張ってる姿に勇気づけられています。
今日も学校に行きました」という趣旨の手紙や電話が殺到。
そこで母サダ子が「全国肥満児をもつ母の会」の名誉顧問に就任。
ドカベンは肥満児の星でもあったのだ。
 高校通算は41本塁打。
当時と試合数も違うが、今回、複数関係者の取材を集約すると「清宮より上」との声が圧倒的だった。
バッテリーを組んだ牛島は約40年前の青春時代を懐かしんだ。
 牛島 ぼくらは大阪でしたが、甲子園は近くて遠い存在でした。
1つ勝つのがしんどかったですからね。
高校野球にはいろんなことを勉強させてもらった。
自分が高3までにどれだけ成長したかは自分で分かるじゃないですか。
そう考えると、ライバルってのはすごいなと思いました。
1つだけ言えるのは、いいライバルだったんだと思います。
 浪商と高校野球の関わりは古くから続いている。
創部は1924年、2年後に大阪代表として第12回全国中等学校優勝大会に初出場。
春夏合わせて32度甲子園出場。
そのうち優勝はセンバツと夏に2度ずつの4度、準優勝はセンバツに3度ある。
浪商の野球史は大阪の高校野球史だったといえる。
 当時の浪商を率いた監督は広瀬吉治だった。
46年、戦後初の夏の大会で、浪華商捕手として平古場昭二とバッテリーを組んで全国制覇。
法大でも優勝、監督としては53年洲本でセンバツ優勝。
68年から母校の監督に就き、数多くの名選手を輩出した。
 広瀬 私は選手のときに「温室の花ではだめだ。
月を仰ぎ、ヘドを吐くほど、風に当たり、雨に打たれ、踏みつけられてもたくましく…」といった指導を受けてきました。
監督としては「野球より人間を作れ」という教えを守ってきた。
牛島は賢かった。
香川はおおらかで、のびのびと育った。
私は素晴らしい教え子たちに恵まれて幸せでした。
 香川が天国に旅立って3年の歳月が過ぎようとしている。
広瀬の見にくくなった細い目にあふれた涙がほおをつたった。
「私より先に逝くとはな…」。
かつての名将は、大海原の甲子園に響いたドカベンの快音を聞くかのように、静かに耳を澄ませた。
また「あの夏」がやって来る。

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